前号までのあらすじ
小牧山城に家康勢、犬山城に秀吉勢が構えて両軍激しくにらみ合うなか、天正12年(1584)に起きた長久手合戦。夜陰に紛れて秀吉勢は家康の出身地・岡崎を目指しますが、途中の日進・岩崎城では徳川方の長久手城主・加藤忠景らが先発の6000の兵に対して、280人で守ろうとします。
城内では必死に抵抗を試みるのですが、いかにも多勢に無勢。丹羽氏重は伊木忠次の振り下ろす一太刀を受け損ね、また、加藤忠景は先陣を切って城門を開いた竹村善正の相手にならず鋭い一太刀で絶命します。
まっ、長久手城のお殿さんとはいえ、期待したほど強くなかったということですね。戦いは30分ほどだったのですが、ここで池田勝入は一同に朝餉の許可を出すとともに、忠景らの首実検をはじめ、大いに時間を取られてしまうのでした。
色重ね家紋デザイン/オフィス・クール
白山林の榊原康政
勝入出発の2日後、徳川四天王と言われた榊原康政、井伊直政(NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」に登場する直虎の跡取りです)らが小牧山城を出発して後を追います。最初に活躍するのが榊原康政です。康政は、勝入の大軍勢で道が滞り、一番後ろの森孝新田・白山林(いまの尾張旭市)あたりの第四陣にいた三好秀次軍に追いつきます。ところが、ここでも秀次は、配下の8000人に朝餉を許しています。
そこを榊原康政の兵が背後から切り掛かり、不意を突かれた秀次の軍勢は大混乱に陥ります。
「腹が減ってはイクサはできぬ」などと言いますが、本当の戦場って油断もスキもないということを実感しますね。
忠臣・木下勘解由
こうしてここから「長久手合戦」の戦端の火蓋が切って落とされたのでした。
榊原軍に大須賀康高も加わった5000の兵力が合体した徳川勢に、秀次勢はあっさり本陣を破られて逃げ惑います。秀次も白山林から長湫方面に逃れ、香流川を渡って細が根の低地に逃れるのですが、乗っていた馬を射られ、やむなく配下の5、6人だけで悄然と歩いて逃げ出します。ここで栗毛の3歳馬に乗った武将が通りかかり、馬を貸すよう頼むのですが、あっさり断られたりします。
そこを助けたのが家臣の木下勘解由だったのです。見かねた勘解由は自分の馬を差し出し、指物を地面に突き立てて兄祐久とともに迫る徳川勢に切り込みます。おめき、切り倒し、なぎ倒し奮戦するのですが、ついに勘解由も祐久もやられてしまいます。秀次はこの一戦だけで数百人を失ったとされています。しかし、この勘解由の働きでようやく生き延びたのです。勘解由の塚は西鴨田橋近くのマンションが立ち並んだ場所に今も残っています。
いくさ上手の堀秀政
さて、豊臣秀次を後に名乗るこの秀次を救ったのは、秀吉から岡崎攻めのお目付役を仰せつかった堀久太郎秀政です。
勝入の岩崎城攻めで前がつかえ、景行天皇社あたりに足止めされていた秀政は、陣地の前後がざわめくのに気づきます。すかさず斥候を送り徳川勢追撃を知った秀政は、香流川を前にした桧ケ根(いまの市立中央図書館付近)からその西の高根山の東麓にかけて3000人を2列に配し、徳川勢を迎え討つ態勢を素早く整えます。
秀次軍の残兵を追って細が根から高根山の北麓まできた榊原や大須賀に対し、秀政は「相手を十分引きつけてから矢玉を放て。馬上の士を一人打ち倒すごとに100石を加増する」と鼓舞したといわれます。勢いに乗じた榊原らの徳川勢は、この「桧が根の戦闘」で数百丁の鉄砲組を前に手痛い反撃を食い、石田の信号交差点方面に敗走していったのです。 (つづく)
その他の 今回の登場人物
丹羽氏重
にわうじしげ
岩崎城主・氏次の弟
伊木忠次
いきただつぐ
池田勝入の家臣
木下勘解由・祐久
きのしたかげゆ・すけひさ
秀次の家臣
加藤忠景
かとうただかげ
長久手城城主
長久手合戦 その参につづく