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長久手合戦 その参

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前号までのあらすじ
小牧山城に家康勢、犬山城に秀吉勢が構えて両軍激しくにらみ合うなか、天正12年(1584)に起きた長久手合戦。白山林(尾張旭)で火蓋を切った戦いは、いよいよ家康勢の本隊も登場して大詰めを迎えます。

井伊直政
いいなおまさ
徳川四天王の一人。外様だったが後、初代彦根藩主に。1561~1602
堀秀政
ほりひでまさ
秀吉の家臣。数々の武功をあげた名将。小田原城攻め中に病死。1553~90
徳川家康
とくがわいえやす
江戸幕府を開府した初代将軍。知将で古だぬきの異名も。1542~1616
榊原康政
さかきばらやすまさ
徳川四天王の一人。家康を支えた知勇兼備の戦国武将。1548~1606
三好秀次
みよしひでつぐ
秀吉の甥。のち関白となるが、最後は秀吉の命で切腹。1568~95
池田恒興(勝入)
いけだつねおき
美濃国大垣城主。
乳兄弟の織田信長の全戦役に従軍した。
1536~84

家康登場!!

さて、戦いはいよいよ本番、徳川家康の登場です。榊原康政の先発隊から小牧山城を出発が遅れること1時間、素早く陣形を整えた家康の本隊9500人は、色金山から香流川を渡ります。そこで、三好秀次軍の敗兵を追った徳川勢が、桧が根で秀吉勢の秀政の反撃にあい、全滅寸前との知らせを受けます。家康は富士が根山に登って戦況をうかがい、井伊直政を今の古戦場公園内にある勝入塚の北側付近の仏が根に配します。
家康は岩作の石田信号交差点方面に逃げる榊原康政など、自軍を打ち破る堀秀政軍の優勢を確認するのですが、今ここで味方に援軍を出すと、池田勝入森長可軍を迎え討つ戦力が落ちると判断します。ウソかホントかは知りませんが、一計を案じ、富士が根山の頂上で激しく旗を振り、鉄砲を撃ち放ち、一斉に喚声をあげて秀政軍を脅したというのです。
わずか400mの図書館付近にいた秀政もさすがにびっくりしたのでしょうね。それ以上の深追いをやめ、3度の勝鬨をあげて岩作の北の高山あたりに退却します。
このあたりが「なるほど、家康」と頷ける、知将たる所以なのでしょう。

赤鬼・井伊直政

ところで、井伊直政ですが、遠江(浜松)の出身で、幕末のあの「桜田門外の変」で討たれた彦根藩出身の大老、井伊直弼のご先祖です。軍団はよろい兜を赤で染め、「井伊の赤鬼」などとその勇猛さを恐れられます。
この赤鬼、もともと信長・家康の連合軍が長篠の戦いで滅ぼした武田家に支えていました。その後、井伊家に召しかかえられて朱色が引き継がれ、長久手合戦で初めて「井伊の赤鬼」としてお披露目されたのでした。
午前5時に始まり、午後2時に決着した合戦もそろそろ大詰めを迎えます。

大詰め、仏が根激闘

勝入は、長男元助、次男輝政に4000の兵を授け、深狭間の東端、西口論議の境から長久手・横道の西南に布陣させます。そして、元助・輝政軍を右翼に、さらに、砂子の東端の岐阜嶽に登っていた長可を左翼に構え、長湫の城屋敷や仏が根、東浦方面に布陣した徳川勢と対峙します。
午前10時、かくして秀吉勢の元助・輝政軍
4000と、徳川軍の井伊軍ら3000の兵が鉄砲の釣瓶打ちで戦火を交える「仏が根の激戦」が始まります。
家康は血気に逸る井伊直政に老将をつけます。老将たちは東向きになる徳川勢がちょうど太陽を正面から受け、目を射られるのは戦いに不利と見て、迫る元助・輝政軍に粘り強く鉄砲隊を使って撃退させます。
じれた元助・輝政軍4000は総攻撃をかけ、徳川勢も鉄砲隊の応戦で迫る敵兵をなぎ倒しますが、その時、秀吉勢の黒母衣衆という勇敢な一団が死骸を踏み越えて突撃しました。これに勇気を得た秀吉勢は仏が根の井伊直政に一気に突進します。
ここで家康は、仏が根に援軍を送れば、そのスキを突いて長可が攻めて来ると考え、富士が根山にあって重傷を負った水野忠重に出兵を命じます。図書館前で敗走した榊原康政は、汚名挽回のチャンスと鴉が狭間の西側から突進。これによって徳川勢は息を吹き返します。
勝入はこの時、このままでは形勢逆転されかねないと、自ら兵2000を率いて仏が根南方に乗り込みます。さらに家康本陣を突くため、このうちの1200と黒母衣衆を仕立てたので、家康も慌てて兵1300を割いて防御に当たります。

その他の 今回の登場人物

池田元助(之助)
いけだもとすけ(ゆきすけ)
勝入の長男

池田輝政
いけだてるまさ
勝入の次男

水野忠重
みずのただしげ
徳川家康の叔父

長久手合戦 その四につづく