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長久手合戦 その壱

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歴史にその名をとどめる「小牧長久手の戦い」の遠因をたどれば、明智光秀が本能寺の変で織田信長に謀反を起こしたことにあったのですが、それから2年後、この長久手市一帯で起きた「長久手合戦」に限っていえば、信長の後継者を決める清須会議にも参会した美濃国大垣城主、池田恒興(勝入)にあるのです。大正のはじめ、長久手出身の浅井祥雲が書いた「長久手合戦 完」を頼りに、4回に分けて歴史をひもといてみたいと思います。(監修は長久手市郷土史研究会の北山清昭さんです)

色重ね家紋デザイン/オフィス・クール

池田恒興(勝入)
いけだつねおき
美濃国大垣城主。
乳兄弟の織田信長の全戦役に従軍した。1536~84
森長可
もりながよし
美濃国兼山城主。
信長、秀吉に仕えるがこの戦にて27歳で討死。1558~84
羽柴(豊臣)秀吉
はしばひでよし
足軽を振り出しに信長に重用され、天下統一して関白、太閤に。1536~98
徳川家康
とくがわいえやす
江戸幕府を開府した初代将軍。知将で古だぬきの異名も。1542~1616
三好秀次
みよしひでつぐ
秀吉の甥。のち関白となるが、最後は秀吉の命で切腹。1568~95
堀秀政
ほりひでまさ
秀吉の家臣。数々の武功をあげた名将。小田原城攻め中に病死。1553~90

合戦の「主役」池田勝入

時は今から400年以上も前の天正12年(1584)3月(旧暦)に遡ります。
小牧山城に徳川勢1万5000、犬山城には秀吉勢8万の兵が入場して両軍激しくにらみ合っています。戦いは長久手合戦の決着がついた後も畿内や北陸、四国、関東で半年以上も続く全国の戦国大名を巻き込んだ一大戦役です。
その前哨戦として、池田勝入の娘婿で「鬼武蔵」の異名をとる美濃国兼山城主の森長可(実は本能寺の変で信長とともに討たれた小姓の森蘭丸と兄弟です)が、功を焦って小牧山城奪取を試み犬山・羽黒の戦いで徳川勢と戦い、散々な目にあいます。
そもそも羽柴秀吉が犬山城に入場できたのは(今ではお一人¥550いるのですが・・。おっと、お城に入る入城でした)、勝入の手柄だったのです。ところが、秀吉が大阪から到着する10日前にあったこの羽黒の戦いで、勝入は娘婿が散々な目にあうのを見ながら傍観していたため、「愚か者」とか「卑怯者」とか、とにかく折角の評判を落としてしまったのです。
それで秀吉が膠着した戦線を何とかしようと考えていた時、勝入が「家康の出身地、岡崎城を攻めて小牧と家康の居城の浜松城を分断すれば、家康は狼狽して尾北を離れる」と進言したのが、この長い戦いの中でもひときわ光芒を放つ長久手合戦の発端だったのです。
羽黒の戦いから約1か月後、勝入は汚名挽回を期し、形だけは三好秀次を総大将に祭り上げ、森長可、堀秀政を従えた2万4000の兵で夜陰に紛れて犬山を出発し、岡崎に向けて進軍します。この時、秀吉は「行軍途中、どんなことがあっても敵城に手出しをするな」とクギを刺します。

岩崎城の加藤忠景

ちょっと話を先に進めてしまうと、2日半かけて勝入は日進・岩崎城の前までやってきます。この時の岩崎城主は徳川方に味方する丹羽氏次ですが、当時、氏次は小牧山城に出張っていました。留守を弟の氏重と、親族で長久手城主の加藤忠景が280人の家臣と共に守っています。そこを6000の兵を従えた第一陣の勝入が通りかかります。
城の前を通させまいと、氏重、忠景は弓や鉄砲を射掛けます。勝入は無視して通り過ぎようとしたのですが、たまたま鉄砲玉が勝入の馬の前足にあたり、勝入は馬から転げ落ちて岩角にしたたか体を打ちつけます。城内からは「勝入を仕留めた」とヤンヤの歓声が沸き起こりました。
元来、短気な勝入は、これで頭に血が上ったのか、秀吉の戒めを忘れ、配下の伊木忠次以下800の兵に総攻撃を命じたのでした。
(つづく)

その他の 今回の登場人物

丹羽氏次
にわうじつぐ
岩崎城主

丹羽氏重
にわうじしげ
氏次の弟

加藤忠景
かとうただかげ
長久手城主

伊木忠次
いきただつぐ
池田勝入の家臣

長久手合戦 その弐につづく