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いざ、警固祭り

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そもそもケイゴマツリってどんなお祭り?

毎年10月が近づいてくると、「おまつり」の雰囲気がただよいます。地元の人たちが「おまつり」と呼ぶ警固祭りは、昭和55年発行広報ながくてによると、「秋の豊年まつりで年寄衆、祭事、鉄砲隊などの警固隊列が行列し、祭礼馬標を警固し神社へと進みます。昔は猿投神社への曳き馬神事がありましたが昭和24年頃から馬の飼育をしなくなったので曳き馬は中止になりました。警固の火縄銃を発砲する行事は現在も行われ、勇壮そのもの」とあります。今年もおまつりの日は、早朝から火縄銃の音がとどろきます。ほら貝がならされ、標具を乗せた馬を警固し衣装をそろえた隊列が掛け声をあわせながら進みます。
アイキャッチ写真は上郷警固祭り(長久手市情報課 提供)

鉄砲隊の発砲。あさぎ色の股引(ももひき)に着物。胸元の風切は金色の糸で刺繍された家紋と龍が輝く。足元はわらで編んだ草鞋(わらじ)。
〈長湫地区/写真提供・長久手市情報課〉
『馬宿』馬付きにひかれ、馬宿を出る。昔は個人宅に馬宿をおいていた。〈長湫地区/写真提供・吉田初美さん〉
『鉄砲隊』火縄銃を肩にかつぎ、豊作を意味するといわれる「ホッサイ」という掛け声とともに進む。2008年の長湫地区警固祭りでの奉納のようす。〈写真提供・吉田初美さん〉

豊作の年だけだった?!

 長久手がまだ村だった頃。各地区でおこなわれた氏神祭りをゴウマツリ(郷祭り)と呼び、それに対し、猿投神社や龍泉寺に献馬するガッシュク(合宿)やゴウシャマツリ(郷社祭り)は他の村とともにおこなう祭礼で区別する必要がありました。さらに、郷祭りをどのように行なうかは、「その年の農作物の豊作をみて」決められ、平年作であればヒキウママツリ(曳き馬祭り)にすることが多く、豊作とされればケイゴマツリ(警固祭り)をしようということになりました。これは、曳き馬祭りが飾り馬だけなのに対し、鉄砲隊や棒隊などが加わる警固祭りは大規模で、その準備や費用も大変だったからのようです(現在では、曳き馬祭りや合宿は行われていません)。

いつごろから始まったのか?

 村人が心願を神仏に祈願するために、馬を飾って寺社へ奉納することは愛知県下でも各地で行われていました。この飾り馬を「馬の塔(オマント)」といいます。 『熱田縁起』(寛平2年/890)の第1節に、景行天皇の御代に尾張篠木壮の住民によって、日本武尊の御霊を奉るため、熱田の宮で毎年行われた。第2節に永禄3年(1560)桶狭間の合戦の時、木下藤吉郎の計略で篠木三十三カ村の若者を熱田の宮に繰出し、威勢を張ったのに始まり、且つ、戦勝記念としてその後も引続き行ったと伝えているとあります。
 長久手の馬の塔がいつからあったのかは、はっきりしないが、日進町岩崎の区有文書である元和2年(1616)『猿投祭禮記録』によると、北熊村・大草村・前熊村・岩作村が猿投祭りに初めて参加したのは慶長8年(1603)のことと記されています。長湫は龍泉寺奉納大森合宿に属していたが、いつごろからかは明らかではないようです。

ダシ(標具)を見れどのムラかわかる⁈

 参加する村は、馬の塔に「御幣やその土地の農産物など特有なものを形どった物」などさまざまな飾りを馬の鞍の上に立てる。この「標具」は神の依り代であり、また奉納団体の「シンボル」ともいわれ、「標具」をみればどこの村なのかが一目瞭然。これをを守るために、槍や長刀、鎌や太刀などで武装した『馬囲い』を馬の周囲に配置。これをケイゴといい普通「警固」の字をあてていると紹介されています。このケイゴの初見は天正4年(1576)で、馬の塔と警固が結びついたのは遅くともこの時期らしい。奉納する団体のトラブルから標具を奪い合い沢山の怪我人を出したこともあるそうです。今ではそのような騒ぎはありませんが、まつりにかける人々の熱い思いは今も変わらず受け継がれています。


師匠から奥義の口伝と門外不出の巻物で伝わる「棒の手」

2008年長湫の棒の手。
〈写真提供・吉田初美さん〉
岩作地区の棒の手。〈写真・雑人編集部〉

2024年の警固祭りは上郷にてとりおこなわれます。
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