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暮らしと自然の今昔 その二 講(こう)

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ざっくばらんにとりあげる雑人的長久手の郷土史

協力・方言監修
浅井昭光さん

 所によっては、今も残る「講」。そこに暮らす人々が、いろいろな仕組みを考えて、支え合いながら暮らしてきたことがわかる。困ったときに「助けて」と声をあげること、もしかしたら、今の方が意外と難しいかもしれない。

困っている本人が発起人

 「講」とは、頼母子講、大黒講、拾人講とさまざまな名称でよばれ、江戸時代全般にわたって広く行われた。目的は困窮者の救済、寺社の運営・修繕・新築、村入用不足の補填など。注目すべきは、「親」「講元」と呼ばれるこの講説立の発起人。実は、困っている人本人が自分自身の救済を各方面に懇願する。だから「願主」とも呼ばれたそうだ。発起人の考えに賛同して、講に参加した仲間を「子」「講衆」「講中」と称し、定められた掛け金を発起人に納めた。掛け金は「懸銭」「懸米」などといい、その合計が「講金」となる。
 1番はじめは、発起人が借用し、2番目以降は仲間たちの中から順番に借用する。全員が講金を借用して満会となり、借用利息の超過金がでると、仲間全員に配分するのが一般的であったそうだ。

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弱者救済の命も

藩の命令により設立するものもあったらしい。自然災害や水の苦労で飢餓に苦しんだり、ミズゲンカ、疫病の流行が手に負えない状態が繰り返されるとお触れがでたようだ。「今般窮民助成講取結ひ候(このたび、貧しい人々を助ける講を取り結ぶ)」との手はずとなったことが説明され、高持の者をはじめとして「具ニ入構(全員講に入る)」するようにと命が下る。

講の什物箱(長湫宮脇講)/長久手町史 資料編4より

地域の組織がみえる?

講に関する資料は数多く残っていて、寺社関係、困窮者救済など金銭授受の記録もみられる。また、「島」という村の下部組織と思われる住民組織があり、村々の島の若連が単位となって取り組んだ頼母子講の控が、岩作村「諸頼母子(後欠)」文書に残る。島で集約されるこの団体が密接なつき合いをしていたことが、講や祭礼に関する資料から推測される近代になって、村とは別組織であったことがわかってきたそうだ。暮らしにそった地域の仕組みが、わかりやすく組織化されていたみたい。今、自分が暮らす地域と比べてみるのもおもしろい。

参考:「長久手町史」

※高持 高持百姓(たかもちびゃくしょう)
石高を所持している百姓のこと。