ここ長久手は、戦国時代を駆け抜けた武将たちが知恵をしぼり命を懸けた戦いの舞台となった地です。天正12(1584)年、後に天下人となった秀吉と家康がぶつかりあった小牧・長久手の戦いの中でも、激しい戦闘があった長久手合戦。令和8年春の「長久手古戦場記念館」オープンの期待も高まる中、ざっと長久手合戦をご紹介します。
古だぬきの異名も
織田家の御曹司

とくがわ いえやす
1542~1616
小牧・長久手の戦では、秀吉の大軍に対し、巧みな戦略と決断力で勝利を収め、その後の天下取りへの足がかりを築いた。1600年の関ヶ原の戦いに勝利し、天下を統一した。

おだ のぶかつ
1558~1630
信長の二男。清洲会議の決裂後は家康と結んだ。小牧・長久手の戦いを経て秀吉に臣従。大和宇陀松山藩主となり、晩年は家康に仕えた。
冷静沈着な、知略家
堅実な水軍の雄
戦場を駆ける鬼武者

にわ うじつぐ
1550〜1601
尾張国岩崎城主。本能寺の変の後、家康の家臣となる。小牧・長久手の戦いでは、小牧から家康先発隊の案内役。

おおすか やすたか
1527〜1589
家康家臣。小牧・長久手の戦いでは信吉軍を追い詰めたが、堀秀政の反撃を受けて敗走。

ほんだ ただかつ
1548〜1610
小牧山城で秀吉軍を迎え撃ち、愛槍「蜻蛉切」を手に57戦無傷。わずか500兵で大軍に立ち向かった。
弁舌さわやかなる知将
槍一本、戦場を駆ける!
赤鬼と恐れられた猛将

さかきばら やすまさ
1548~1606
家康から武功を称されて「康」の字を与えられた。文武両道の将として家康の外交面も支え、江戸幕府の基礎を築い

いい なおまさ
1561~1602
小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いで活躍。家康の信頼厚く、幕府創設に貢献した。初代彦根藩主に。

わたなべ もりつな
1542〜1620
「槍半蔵」と呼ばれた槍の名手。1608年家康の命によって尾張藩主となった義直の付家老に。この時、尾張国岩作(現長久手市岩作)5,000石など与えられる。
堅実無比な、守りの要!
家康公の、忠実なる右腕
戦場を舞う、花の武将

あんどう なおつぐ
1555~1635
小牧・長久手の戦いにて池田之助を討ち取る活躍により、弓を拝領する。1610年家康の命により徳川頼宣付家老に任じられる。

ながいなおまさ
1563~1626
小牧・長久手の戦いにて池田勝入を討ち取る。関ヶ原の戦いでは使番を務め、大坂の陣でも活躍。外交手腕にも優れ、幕府の要職を歴任。

みずの かつなり
1564〜1651
家康のいとこ。小牧・長久手の戦いの後、全国を転々と渡り歩く。足取りは諸説ある。家康の臣下として戻った後も、数々の戦にて活躍。

もう一度おさらい!「長久手合戦」
天正10(1582)年、本能寺の変にて織田信長が自害したのち、織田政権が瓦解(がかい)。秀吉は急速に勢力を拡大し、天下を狙う。信長の次男信雄は秀吉の台頭に危機感をいだき、家康に協力を求め天正12(1584)年、小牧・長久手の戦いにて羽柴(後の豊臣)秀吉軍と織田信雄・徳川家康連合軍が激突した。秀吉軍(8万人)と信雄・家康連合軍(1万5千人)は、犬山城周辺でにらみ合い、戦闘は膠着状態が続いた。秀吉軍が岡崎侵攻作戦を実行するが、家康軍に追撃され、戦況は不利に。最も激戦であった長久手合戦では、家康軍が勝利を収める。この戦いで秀吉方についた織田信長の乳兄弟池田勝入、その長男池田之助また娘婿の森長可が戦死。その後、秀吉は信雄と和睦し、約9ヶ月にわたる戦いは終結した。家康の勝利は、彼の実力を天下に知らしめ、後の徳川政権樹立への布石となった。この戦いは、豊臣政権成立過程を理解する上でも重要な意味を持つ。
長久手合戦記念館オープン〜長久手に来たら食べてみて

ぼらぱん
居眠りしながら、天下取りの夢でも見ようかな…と合戦の合間に休憩する人もいたのかな。人気の湯種ぱんの生地で軽い美味しさ。

まちの台所風と虹
徳川四天王の一人、「赤備え」を率いた猛将、井伊直政をイメージしたピリッと辛い本格スパイスカレー