ざっくばらんにとりあげる雑人的長久手の郷土史
長久手には、
ため池がたくさんあった!?
農業用水として雨水に頼り、河川からの取水を補うため、古い時代からため池がつくられた。これらのため池の配水管理については、上郷村・岩作村・長湫村の時代から「水回り制度」と呼ばれ厳密に行われてきた。各村の耕地に水を平均に入れる「水かけ人」は、「水かけ年貢」(報酬米)を払われて、その重責を担った。この制度は、愛知用水が完成する昭和30年中頃まで続いた。明治16年(1883)、「長鶴大池」をつくったものの水がたまらなかった。記録(「岩作里誌」)によれば、東方の前熊境の「二の池」の脇から、現在の県立芸大の下を通って「長鶴大池」に導入するトンネルが掘られたという。「水」は人々の暮らしや生業に欠かせない、生命の鍵といってもよかったのだろう。
村をあげての雨乞い!?
今でも現役の調整池である立石池の堤防には、大正2年の雨乞いの願いを伝える「八代龍王の碑」が建つ。長久手村の主催で行われ、村長以下、各大字の区長が参列。村内の三光院(大草)、豊龍院(岩作)、豊善院(長湫)の真言宗寺院の法印が祈祷を行ったという。
「池」から学ぼう
愛知用水の完成や、土地改良事業、区画整理によって「池」は減った。けれど「池」の名前がつく杁ヶ池公園や、池は無いけど「血の池公園」というのもある(ちなみにこの「血の池」はもともと「前山池」という名前だったが、毎年4月になるとホンノリ赤く染まった。鉄の仕業だったとも言われるが、地元の人は長久手合戦の折、武器を洗った際に流れこんだ血が浮いてくると噂し、いつしか「血の池」と呼ばれるようになった。今は埋め立てられ、その赤い池を見ることはできない)。
「池」はただの大きな水たまりではなく、癒やしの場というだけでもなく、人の暮らしに欠かせない大切な役割を担っていた。時代と共に変化していくだろうが、その変遷から歴史を学び、暮らしを見直したりすることがたくさんありそうだ。
(「長久手町史」本文編より抜粋)