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上郷 警固祭り

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長久手市指定無形民俗文化財

見事な秋晴れの下、10月8日上郷警固まつりが開催され、上郷地区の多度社、熊野社、神明社にて奉納。オマントを警固する発砲隊の火縄銃の音が道々でとどろき、勇壮な棒の手の披露が観客をわかせました。

上郷

長湫

 

岩作

3地区で行われていた祭事でもあり、同日、岩作地区の石作神社、長湫地区の景行天皇社でも、神輿の奉納、巫女神楽の奉納が行われました。子どもたちが神輿を担いで奉納祭事を行う地域もあり、長久手市内がお祭りで賑わいました。来年も楽しみです。

警固まつりってどんなお祭り? ❶

馬の塔の特徴と由来(町史より)

龍泉寺・猿投神社と馬の塔

「猿投祭礼記録」 猿投合宿の記録が天文22年(1553)から記されている

長久手町域で合宿というと、龍泉寺へ奉納される龍泉寺合宿と、猿投神社に奉納される猿投合宿がその代表である。龍泉寺合宿は10月18日に行われ、3つの合宿があり、そのうち大森合宿では旧春日井郡、愛知郡から11か村が参加し、長湫村がこれに出ている。
ほぼ10年おきに行われてきたが11ヶ村全部が参加したのは昭和11年が最後である。
猿投合宿は9月9日(現在は10月10日)に行われ、三河、尾張、美濃から11合宿があり、そのうち米野木合宿には岩作村・前熊村・北熊村・大草村が参加した。あまり多くの村が参加するためとりまとめが難しく、大正6年に祭礼中喧嘩騒動が起き、それ以降は行われなくなった。

馬の塔の記録

馬の塔に関する記録としては、日進町(現在は日進市)岩崎の区有文書「猿投祭礼記録」があり、その中には「猿投祭り出始之覚」として天文22年(1553)から順次合宿が形成されていったと書かれている。『東照軍艦』によれば永禄7年(1564)の猿投祭りに馬が出されていたことがわかる。これらにより、中世末から近世初頭にかけて合宿がつくられ、馬の塔形態が整えられていったと考えられる。

『尾張名所図会』「熱田端午馬の塔」